昭和四十三年十二月十一日 朝の御理解


御理解第四十節
「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」


 信心はさせて頂く者は楽じゃという事。信心は楽じゃという事にも頂けると思いますねえ。信心は、信心はそんなに難しいもんじゃない。信心は楽じゃという風にも頂けますけれども、信心をさせて頂いておる者は楽じゃと。それはものの道理というか、天地の道理というか、その、道理におうた生き方をさせてもらうところに楽じゃと。いわば重い物を担いでおる訳でもなからなければ、担うておる訳でもないのですけれども、心に重い物を担うておる、心に担いでおる。それを信心の道理が分かると、そういうものを担がんですむ。そこんところが、まあそういう事にならなければだめ。信心をしておっても、それを、心にそういうものを担いでおったり、担うておったりしたんではいけません。
 ですから人間心の強い人はおかげが頂きにくいと言われる。いかに行き届いておっても人間心の強い人は小さい範囲でものを計る、ね。自分の小さい、いかに行き届いておるというても、それは実にもう小さい事である。そんなに分かる事があるはずがない。本当に障子一重がままならぬ人の身とおっしゃるように、もう一里先の事が分からんのですから、いかに行き届いておると言うても、それはたいした事はない。
 重い物を負うているか、担いでおれば苦しいがそうではないからと。信心はさせて頂いておる、信心は楽じゃと、成程信心は楽じゃと信心はさせて頂いておれば楽じゃと。取り越し苦労も要らない、心配も要らない。いわゆる過去の事を何時までも、とやこう言う事はない。その全てがね、お礼とかお詫びでかつがつ解決していくものである。そこんところをひとつ頂いていくと、ここんところ信心は本当に信心というものは、一通り信心を分からせて頂いたらこんなにも楽になった。おかげでこんなにも肥えてきたという事になるのじゃないでしょうかねえ。折角ならば信心をそこまで、ひとつ高めていかなければいけません。
 何故、だから、なら、信心はしておっても楽じゃないですから、何故そんなにまだ本当に天地の事訳というものが分かってない道理が分かってないからなのですから、そこを教祖様はこんな風に教えておられますもんねえ、御神訓の中に。「四季の変わりは人の力に及ばぬ事ぞ。物事、時節に任せ」と、おっしゃる。いかにあくせくとしたところでです、四季の変わりは人の力に及ばぬ事ぞと。時節に任せと。お任せする、ね。ですから楽なんです。
 次には天地の事は人の眼(まなこ)をもちて知りて知りがたきものぞと、恐るべし恐るべしと。そこんところに例えば自分の小さな考えを押し当てて言ったりする事はです、もう本当言うたらこわいことだと。天地の働きを疎外する。天地の働きを邪魔をする。神様のいわばおかげを崩してしまうような事にすらなる。
 今日私、御祈念中に頂いた事は、あの、今、流行歌の中にですね、昨日の事はもう言わないでというようなものがありますでしょ。それが響いてくるんですよね。昨日の事はもう言わないでと。昨日を忘れ今日を喜び明日を楽しめとおっしゃられる。何故昨日の事を言わないですむのか。昨日の事が引っ掛かって引っ掛かってたまらん。昨日の事は思い出しただけでも腹が立つ。というように昨日の事が忘れられない。それは天地のことわけを知らないからだと。天地の道理が分からないからである。本当に昨日の事は、もう言わないでという、言わんですむおかげ。
 いわゆるそれを流れ川三尺とも。心の中が本当に流れに流れておらなきゃいけない。どんどん流れに流れて谷川のような水がね、そこで、まぁ汚い物を洗ったに致しましても、流れ川三尺。もうその水の三尺下に流れたら、もうここで食べる物を洗うてもいいというようなもの。色んな事がある、あるけれどもそれがさっさとこう忘れられてゆく、流れ、流れ、流れ去ってゆく。かと言うてなかなか昨日の事が忘れられない。思い出しただけでも胸くそ悪いというだけにとどめておったんでは、さぁそれを忘れろと言う事は難しい。
 けれども教祖はね、それを全部お礼の対象にしてゆけとゆうふうに教えられ、ここではそこんところを強調させてもらうんですね。又はその事を、その事を詫びてゆけ。この人は恐ろしい人じゃなぁと、この人は顔は地蔵さんのごとしてござるばってん心は恐ろしい人じゃなぁと悪い人じゃなぁと。例えばゆうような場合があるですよね。
 例えば私に対して、人間というものは本当にギリギリになる時にその性根が出てくるんですよね。汚い人はいよいよ汚いものが、こうかぶさってあるのが、いよいよの時にはこう出てくる。特に信心には、私はそれをこうやってかぶせてあるから分からんけれども、いよいよの時になってくると、それが出てくるんです。あの人は本当に恐ろしい人じゃと、ああいう心で自分の事を、自分のこの事ならこの事に対して思うておられたんであろうかと、ゆうようにですね、本当にこの人ばかりはあきれたと思うような事があるんですけれども、私共は昨日家族の者で暫らくそんな話をしたんです。
 しかし考えてみるとね、そういう人達がです、よくよく考えてみると私や私一家の者がおかげを頂くために神様に使われておったという事になった。もしあの人達が善人であり、あの人達が私の事、私一家の事を本気で親切に思うておっておられたら、今日のこのおかげはない。本当に本当にそこんところだけを見ると、結局もうこのくらい情の無い親切の無い本当に人は無いと思うておったけれども、それをもし親切に普通のようにされておったら今日のこのおかげはなかった。してみるとあの事は、その人は、私、お礼こそ言わなければならん、悪く思うたり言うたりする事は間違いであるという事が分かる。
 だからそういう風にお礼を言う事で終っていくのですから、もう昨日の事は言わんですむのです。もう昨日の事は忘れなさい、忘れなさいと言うのじゃない。又それが反対の立場になって自分のお詫びをせんならん事に気が付いた時には、その事は詫びて詫びて詫び抜かせて頂くところから、詫びれば許してやりたいのが親心だというそういう心の中にすっきりしたもの。いわゆる許されたというもの。それが一切の対決の上にも表れてくる。
 はぁご無礼が出来た、お粗末が出来た。詫びて詫び抜かせて頂きよると、はあこれはお詫びがかのうたと思わせて頂けれるようなおかげが頂けれるて、金光様の御信心は。だから、その、詫びなら詫び、詫びなければならないようなそういう事をです、はあ自分達はそれにひっかかる事はいらんて。本気で詫びて詫びて詫び抜いていけば、ひっかかる事はない。許された今日(こんにち)という事になる。本当にあの人はあの人はと、こう、まぁ人の場合でもそう、あの事はでもいいけれども、それが全部、まぁ言うなら神愛であったと。本当に冷たい人だ、冷淡な人だと、こう思うておったけれども、それは私が今日ここにおかげを頂くために、この方達はそれこそ私の為に使われておった人達なのだとお礼を申し上げる事ばっかりですから、その事がね、お礼とか詫びで、過去の事は言わば昨日の事はもう言わないですむおかげが受けられるのである。
 そして、なら、今日(こんにち)を一生懸命に生きてゆく。いわゆる今日(きょう)を本当に喜ばせて頂けれるおかげを頂かしてもらうと。そこから希望が湧いてくる、喜びが湧いてくる、明日という日が楽しゅうなってくる。
 何故そういう風に、頂き方、何故そういうような頂き方をしなければならないか、そういう、そういう頂き方をさせて頂く事を研究する、そういう頂き方をする事を極めてゆく。何故そういう稽古をしなければならんか、あっちがあっちならこっちもこっちだと、あれが悪いやつなら、こっちも悪できたら悪でいこうという風にです、いうと、その心の中にいつも作戦を練っておかにゃならん。今度逢うた時に、あっこう言うちゃろうという風な心、それではね、心がたまらない。又そういう心にはおかげは受けられない。
 もう昨日のあげな事はなにもなかったように忘れておられる。それはもうお礼で片付いておる。お詫びで片付いておる。何故かと言うと、いわゆる四季の変わりは人の力に及ばん事だからなのです。四季の変わりは人の力に及ばんものなのです。天地の事は人のまなこをもちて知りて知りがたきものぞ。そういう大変なお働きの中に私共があるのですから、そういう四季の変わり天地の働きという、その働きの中に私共がおかげを頂いておと、そういう働きを働きたらしめる生き方がある。いうなら神様の働きを、働きたらしめる生き方がおかげを頂いていけれる道だと、お徳を頂いていけれる道だと分からしてもらうから、そこんところが分かっていかにゃいけん。
 しかし教祖様っていうお方は本当に素晴らしいお徳を受ておられた事だろうと、事だなと思うんですよね。このような例えば四季の変わりは人の力に及ばん事だと、だから物事は時節に任せてゆけ。それから先の事は、もう時節に任せてゆけ。それを自分の力でとやこうしようと思う。そういう事はですね、言うならば神様を冒涜する事になるんですよ。自然の働きをですね、自分の力でとやこうしようと思うような事は、いわゆる神を冒涜、神の。そうゆう事しよっては、いわゆる恐るべし恐るべしと。だから人間心を使う人は、その自然をそうゆうようなものに自分の力、知恵でどうこうしようとする。そこにですね、恐るべし恐るべしといったような結果が生れてくるんです。いわゆる本当のおかげになってこないのです。
 そうゆう例えば自然の働きの凄まじいまでの働きというものをです、その働きがです、私共の幸せの為に実はあるのだと。だからそうゆう働きは私共がいわば成行を大事にしてゆけとゆうような事なんかは、そこにぴったりする訳ですよね。
 昨夜若先生がお話し致しておりましたようにね、超自然と、ね。いわゆる超常識とね。超道徳とね。人間心を使う人は、只道徳的な事、常識的な事だけで自分を計っていこうとする。世の中を渡っていこうとする。いかにも美しい事であるけれども、それではいわば超の付くようなおかげになっていかんのです。実意丁寧神信心というのは、そうゆうような人間の小さい考えの事で、例えば何と言うですかね、礼儀正しくとでも言おうかね、作法道とでも言おうか、それをきっちと。それじゃない、実意丁寧、実意丁寧神信心と言うのはです、自然の働きに対して実意丁寧でなからなきゃいけない。自然のそうした凄まじいまでの働きが銘々の上に起きておる、その起きておるその事に実意丁寧をもって取り組ませて頂く事が実意丁寧神信心なのである。
 それをです、これは宗教からではなくて、例えば道徳的な生き方常識的な生き方には、もう限界がきておるんだと、信心の無い人達が悟りだしたというのである。そしてそこにもうひとつの別な世界が必ずあるんだと。いわゆるそこを信心の世界とか、次元の違った世界という風には、まだ分かっていないけれども、もう人間のこの考えで出来た道徳とかね、常識的な事では、もう駄目だという、もうそれは限界にきている。だから、これは自然主義的な生き方の中から必ず違った世界が生れてくるんだという風に気が付いてきた。それはもうほんの世界、いや地球上に住んでおる人の一部の人達にすぎないのだけれどもです、それに気付いてきたという事は素晴らしい。それを教祖様が言うなら百年前にここにはっきりおしゃっておられる、ね。四季の変わりは人の力に及ばん、及ばん。物事は時節に任せよと。天地のことは人のまなこをもちて知りて知りがたきものぞ。恐るべし、恐るべしと。人間の小さい考えで生きていくという事は、もう恐ろしい事なんだ、実を言うたら。
 そして御理解四十節をもう一遍頂いてもらいたい、ね。「重いものを負うているか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」もう平易にあまりにも淡々と説いてあるから、この中に今日私が申しました御神訓のそうゆう難しい事が分からなければ信心は楽じゃという事になってこない。いつも重いものを担いどかなならん。あれが言うた事が、あれがした事が、あれが昨日の顔ば思い出しただけで胸くそが悪うなるといったような事になるんです。そういうものが綺麗さっぱりと、すきすきっと。いわゆる昨日の事はもう言わないですむ、その事訳というのは御神訓の今私が申しましたようなところ。そういう事訳が分かっておるからです、そこんところを分からせてもろうて、お礼がその事に対して言えれるところまで信心を進めてゆき、又気付かせて頂いたら、そこんところを詫びて詫びて詫び抜かせて頂いていくというところに、その事は腹の立つ事ではない、お礼を言わねばならん事だと。この事は自分の心を汚す事だ、もう汚しておってもです、ね、そこんところは詫びればよいのだ。詫びて詫びて詫び抜かせて頂くのだ。
 そして今日は、ここんところを精一杯にです、今日を働かしてもらうんだ。いわゆる昨日を忘れて今日を一生懸命のもので生きてゆく。
 この方の行は火や水の行ではない、家業の行だと。この三十九節にありますよね。ここんところなんかでも、そうなんですよ。もう本当に、もう火の行水の行といったような、例えば苦しい事じゃないのだと。家業の行なのだからと、家業の事に一生懸命にね、打ち込んでゆく。そして明日を楽しませて頂き、自然の猛威というかね、自然の例えば凄まじいまでのそのお働きがです、目に見えてくるようになる、心に感じられるようになる。こういう凄まじい働きをもってこの人が使われて、この人がこう言いよるんだという事が分かってくると、それが有難い事になってくる。
 そういう頂き方がね、分からしてもらえるから信心は楽じゃという事になる。重いものを、そんなものを担がんでもええ。家業を勤め勤めするがよい。又この方の行は火や水の行ではない。家業の行ぞと、家業を勤め勤めするがよい。もうその事だけに打ち込めれるのだ。自分のその御用だけに打ち込めれるのだ。自然の働きに対して実意丁寧、それをね、頂いていくという事が実意丁寧神信心だと。そこから必ず明日の楽しみというものがある。必ずおかげが頂けれる。この生き方、この在り方でいけば必ずおかげが受けられるという、所謂確信がいよいよもてるようになってくる。
 昨日の事はもう言わない、昨日の事はもう言わないですむ信心。それを今日私は御理解四十節の中から頂きました。同時に御神訓を頂いて、何故この四十節に出ておる信心は楽じゃと。家業を勤め勤めするがよいとおしゃることはここんところはそう言われてもなかなか出来ません。そげん言うてもやっぱり重いものを、あの心配事、この難儀な問題をいつも心にかかって、この頃気になって気になってたまらん、晩も眠られんごとあると、と言わんでもすむ為に、今日は今のところ四季の変わりは人の力に及ばぬ事ぞといったような素晴らしい事を教えておられる。天地の事は人のまなこをもちて知りて知りがたきものだから、そういう心配にあくせくとしてはならない。むしろそういう心配があるなら詫びてゆけ、礼を言うてゆけ。又礼を言わねばならない事なのだ。又詫びてゆかなければならない事なのだ。そこから凄まじいまでの働きを自分の身、自分の一家の上に現していく事ができる。そういう生き方がです、出来るようになるから信心は楽じゃという事になるのです。楽じゃと言われるところまでの信心をね、だからこれはね、信心なそげん難しいこっちゃなか、信心は楽じゃと。そういう意味でもありましょうけれども、今日私はここをです、そういう事が分からしてもろて、重いものは負わんですむ、もう昨日の事は言わないでとすむような、言わんですむようなおかげを頂かしてもらうから、信心をさして頂くと楽じゃと。信心をさせて頂かなければ、そこのところが分からんのだというところを今日は申しましたね。どうぞ。